当時の苦労

蒲田行進曲でしられる「松竹キネマ蒲田撮影所」は、16年間の歴史をトーキーへの移行のために幕を閉じました。

まわりには工場が多く、騒音が激しいことで、トーキーの撮影には不向きだったようです。

それでも日本初のトーキー映画である「マダムと女房」の公開が1931年、蒲田撮影所の閉鎖が1936年であることを考えると、5年間はなんとか頑張っていたことになります。

この騒音に悩まされる蒲田撮影所が初のトーキーとして世に送った「マダムと女房」は、隣の騒音に悩まされる夫婦の話。

この絶妙なコントラストに笑ってしまいます。

とはいえ実際の騒音と映画で使いたい騒音とは違いますから、防音対策や消音対策には試行錯誤を余儀なくされていたようです。

天井に厚手の布地を貼ったり、床に畳を敷いたりなどを行い、更にセットでの撮影は夜中に行う。

たしかに夜中は工場が閉まっているでしょうから、この時間が勝負でしょう。

早朝にラッパを吹きながら廻る豆腐屋から豆腐を全て買って音を止めてもらったというエピソードのあるようで、頑張っても満足できる防音効果が得られていなかったのかもしれません。

カメラの回転音にも気を使い、畳で作ったカメラブースに外から鍵がかかる構造にしていたようです。

この「マダムと女房」の映画ではなかったようですが、火災の際にカメラマンの水谷文次郎氏は焼死しかけた模様。

イタリア映画のニューシネマパラダイスでは、映画館の火災の場面がありました。

フイルムの火災は手の施しようがなく映りました。

あの火の廻りの速さをおもうと、この時の火災はとんでもなく恐ろしいものだったでしょう。

古き良きもの

創意工夫は「何とかしなくてはならない」というところから生まれます。

満たされたところからは出てこない発想も多いものでしょう。

蒲田の撮影所時代を懐かしむ声が未だに聞かれるのは、この悪戦苦闘の時代は活気がある時代でもあったということだと思います。

CGが嫌いかと言われると、そんなことはありません。

実現できなかったファンタジーの世界も見せてくれますし、壊せないものも壊せます。

それでも想像力を駆使して目の前の展開以上を頭の中で描いた時代も、私は嫌いではありません。

白黒であったはずの映像も、何故か私の記憶の中ではカラーです。

変換しているのでしょう。

話は変わりますがバイクを売ろうと思っています。昔はよく乗っていたのですが今では車庫でカバーをかぶったままです。

どこか高く買ってくれるところはないかとネットで探しているとバイクの買い取り相場と査定額が高めの業者ランキングというサイトを見つけたのでここで探してみようと思います。

Theme by RoseCityGardens.com